活動
国立への想い しまづ隆文
“終いの棲み家”を大切に
今年の秋は母を亡くして13年めです。この季節、谷保の小道を歩いていると思わず彼岸花の一群に息を呑むことがあります。
「曼珠沙華 抱くほど採れど 母恋し」(中村汀女)
こんな句とともに母を思い出させてくれるこの地の風景は、懐かしいふるさとを確実に想起させてもくれるのです。
ここ国立の界隈に住んで20年余。すでに第二のふるさとになるばかりか、もはや私にとっては“終いの棲み家”となりつつあります。それだけに国立の最近の動きに心が痛みます。昔からこの街は文化と景観を大切にする歴史をもち、暮らしと自然との調和を人々の知恵で図ってきました。
しかし昨日今日のまちづくりをめぐる混乱は些か尋常ではありません。市は議会と膝を割った話し合いもままならず、財政も予算の編成が出来ないほど危機的になっていると耳にします。そういえば今春の3月の予算市議会で、市長が下のように施政方針を述べておりました。
それはドイツ東部のフランクフルト・オーデル市での、7千戸の住宅を壊し緑地にする計画をとりあげてのものでした。「これからは創り続ける発想から、壊し縮小していくドイツが始めた『減築』のような都市再生構想も必要となってきます。」壊し縮小していく『減築』の思想をこの国立市は基本にしようとしているようです。
しかしこうした政策スタンスがまちづくりを消極的にし、救急車も入りづらい道路を残し、国立駅周辺や南部のまちづくり計画を滞らせているのではないでしょうか。行政にも足踏みが必要なこともあります。しかし「壊し、縮小していく」理念をストレートに、しかも地域の暮らしぶりを考えず一律に実施するというのでは、どうしても市民生活に混乱が生じます。議会も困惑してしまいます。
ちなみにフランクフルト・オーデル市は人口流失や110億円を超す赤字、20%近い失業率(2001年度)などに苦しんでおりました。そこで企業誘致に力をいれ、その結果最近では半導体や太陽電池の企業が入って来、ほっと一息をついたといわれています。市のこうした実態に触れず、『減築』策そのものを美談とし、反開発、反誘致の先進自治体例のようにこの市を引用するのは誤まりというほかありません。
こう思い巡らすと一時は色鮮やかな彼岸花の緋色も、国立の街の混迷さと同様に、ふいに寂しいものに感じられてなりませんでした。(061024記す)
【撮影/中栄 修】 |